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保育における「甘くみられないように・なめられないように」の質

子どもに「甘くみられないように」「なめられないように」

 

私は園長として、この感覚を許容していません。これは明確に職員に伝えます。

 

ただ、この感覚を保育士のあり方として指導される現場があることを知っています。

 

過去に言われた「甘くみられないように」の言葉で、「子どもにとってどうなのか」の視点を大切にして、子どもを1人の人間として尊重しようとする保育士が、自身の保育に不安を抱えるケースは少なくありません。

 

その呪いのような縛りを解いて、学び続ける楽しさを存分に味わってほしいのです。

 

「甘くみられないように・なめられないように」の質

① この感覚で、子どもと保育士の間に築かれる関係は【支配関係】です。

信頼関係とは相反する関係です。子どもにとって、保育の営みにとって不適切なのは明らかです。

 

② 支配関係を築く場合、テクニック(対象を動かす・つくる技)があればできるので、専門的なスキル(自身のあり方や行動に影響する技術や知性)を必要としません。思考停止や学びの停滞が起こります。

 

③ 子どもの今と未来や子どもの人生ではなく、自分たちが「快」の状態になれるかに焦点が当たっています。判断基準に身勝手さが垣間見えます。

 

④ 「甘くみられないように・なめられないように」この言葉を使う人は、子どもが自分を発揮したときに、それに応答する専門的スキルが欠如している可能性が高いです。

 

⑤ もちろん子どもに対する職員の配置が要因になっているケースも多々あります。しかし、状況によっては支配関係を築かずに集団が機能する保育の営みは可能です。もちろん気持ちだけではできませんので、専門的な知識とその知識を実践で扱うトレーニングは欠かせません。

 

⑥「甘くみられないように・なめられないように」は、自身の実力不足への嘆きとも言えます。保育士としての学び(知識の習得や日々のトレーニングなど)が足りていない状態です。

 

また、子どもが信頼する相手に安心していろんな自分を発揮し出したときに応答できない自分への抵抗もあるかもしれません。この場合、保育士の「こうあるべき」子ども像に沿った子どもの姿を、テクニックを使って作りだしていくことが優先されるケースがあります。

 

これは簡単なことです。

そのテクニックに子どもが楽しんだり喜んだりする姿を見せるでしょう。

 

しかし、その子にとって乳幼児期にふさわしい体験や学びの損失が起こったり、中長期的にみたときにその子の人生に負の影響を及ぼすことは明白なのです。

 

私は養成段階から保育者の育成に関わっているなかで、この専門的スキルをトレーニングする機会を活かせていない保育者は多いのではと推測しています。

 

子どもを動かすテクニックはネットでも調べられます。

しかし、保育の専門的スキルには、テクニックを「使わない選択」をできるかが含まれていると思います。

 

「甘くみられないように・なめられないように」派の反応

こういった話をすると、「甘くみられないように・なめられないように」派の方はこんな反応を示します。

 

「集団生活が成り立たない。」

「子どもが怪我してもいいってことですか?」

「保育をわかっていない。」

「現実はそんなに甘くない。」

「それは理想論だ。」

 

これらの反応は、子どもを信頼できていない=専門的な知識と技術の欠如の現れだと言えます。この子どもへの不信は自覚できていないケースも多いものです。

 

そして、脳の回路がストレスに反応しやすくなっているケースも多く、攻撃モード(極論を持ってきたり、論点をずらして相手の非を探す)や、逃避モード(「もういいです」と言って終わらせようとする)になりやすくなっているのかもしれません。

適切な思考や判断をできない状態に自分を持っていってしまう回路が習慣化されているのかもしれません。

 

また、抵抗が生まれやすい要因になる、環境を変えようとしたときに出てくる壁があります。

 

それは子どもの試し行動です。

 

これまで、支配関係が軸だった生活からガラッと変わって、自分の主体が尊重され始めたとき、自分自身で考えたり、自分の内側に触れて選択したりする経験がその空間では少なかったので、いろいろな行動を試す必要があります。

 

そこではこれまで見られなかった子どもの姿が、特に保育者にとっては困った姿が出てきやすいです。そこで「ほら甘くするから」と、元の支配関係に戻るケースが多いのです。子どもにとっても自分が尊重されたり自分で選択したりすることに慣れるまで時間が必要なので、その前に支配関係に戻ると「ラク」さはあるのかもしれません。

 

もちろんその状況は、子どもの育ちにとって望ましくないですよね。

 

ただ支配関係の空間では、支配がないと生活が成り立たない負の循環が固着していきます。その循環からシフトを起こしていくのは、気持ちだけではできないといった困難さも変われない現場にはあるかと思います。

 

こういったケースで、場に変容を起こしていくのは容易ではありません。

そこで、葛藤を乗り越えたり、関係性を見出したりして保育現場に違いをつくっていく対話についても含んだ記事を書き進めています。

 

おわりに

子どもを1人の人間として尊重し、乳幼児期にふさわしい体験が重ねる生活を営もうとするとき、子どもに「甘くみられないように・なめられないように」という考えは出てきません。

 

その発言があったとき、保育の原則とはズレた実態が現場にあることのサインと捉えることができます。

 

養護と教育の要素はなく、大人都合の生活の枠に子どもを当てはめているだけとも表現できます。

 

「子どもにとってどうなのか?」

「子どもの育ちにとってどうなのか?」

 

 

この視点に立つとき、より高度で、高次元な専門的スキルが求められます。トレーニングを続けること、時間が経つにつれて固定化していく認識や関係性を編み直し続けること、容易ではない取り組みだからこそ、保育士は専門職なのです。

 

「甘くみられないように・なめられないように」は、自分の保育に甘く、専門職である保育の営みをなめている現れなのかもしれません。

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