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保育に調教のスキルは不適切。

目次

 

こんにちは!teams.の石川です。

 

先日、「保育に調教のスキルは不適切」というツイートをしました。

 

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「調教」というと、えっ!?と思う方もいるかと思います。

 

しかし、先人の研鑚を置き去りにするように、「独自」と「独善」をはき違え、感覚や経験に大きく偏る保育を積み重ねていった結果、保育のスキルとして調教の要素が使われていることがあります。

 

それは保育でもなんでもなく、ただ、ただ不適切な関わりなのですが、 

・魅力ある先生が辞めることを選択するような残念な現場

・閉ざされた聖域を作り鎖国のような状況で前進を止めた保身の温床

・リーダーに必要なことを学ぶ隙もなく、主任や園長になり、その後もトレーニングを重ねる環境が現場にない

様々な要因があり、いくつか絡み合っているケースもあります。だからしょうがないとはならないのですが、その背景を扱うことでしか、課題の解決に向かわないこともあるかと思います。

 

なかには、保育者に適さない資質でありながら資格を取り、教育やしつけと称した調教のスキルのような不適切な関わりが常態化している現場もあり、憤りを覚えます。

 

一方で、職員間の対話を尊重し、

子どもの豊かな未来を創るために、

乳幼児期に必要な環境や関わりを丁寧に丁寧に紡ぎ、

思考停止せず常に保育の見直しを行い、

子ども、保護者、保育士、地域が共に前進している数多くの保育園・幼稚園・こども園がある事実には勇気づけられます。

 

これって保育の専門性?

「先生の話を聞かないなら遊べないよ」

「言うこと聞けないなら赤ちゃん組に行く?」

「練習がんばったら遊べるよ」

「頑張らないと(上手にできないと)恥ずかしいよ」

「(ことあるごとに)上手〜!」

「そんな座り方じゃ、小学校の先生に怒られるよ」

 

 

これらの言葉は、子どもを支配して動かす関わりのため、子どもの可能性を閉ざすことは明白です。

 

しかし、計画の質が低く、対話的な振り返りが欠けている現場では、視野も心も狭くなり、子どもを思い通りに動かす判断に偏りやすいものです。子どももその関わりでないと行動できなかったり、自分で選択することに不安を覚えやすくなったりするので、保育者側も常に主導しなくては集団が成り立たないという悪循環から抜け出すのは容易ではありません。

 

計画や振り返りの時間が十分に確保できない状況もあるかもしれませんが、それは不適切な関わりを容認する理由にはなりません。

 

難しい話でも理想論でもなく、保育の基本だからです。応用は困難でも、基本はしっかり保障するのが最優先だと思います。

 

 

調教とは、

”動物に情緒的な働きかけをし、特定の人の命令に従い、一定の行為を行わせるようにする訓練の過程をいう。”世界大百科事典 第2版

 

 

保育の現場は、

大人の命令に従って、一定の行為を行わせることが目的では決してありません。

集団が成り立たないからといって、正当化されるものではないと思っています。

 

大人の都合が優先され、子どもの自発性や思考力を奪う行為が繰り返されることは、保育として不適切保育ではないと言えます。

 

子どもが同じ行動を取るとしてもそのアプローチの違いで、その子の中に育まれることが全く異なってくるのです。

 

「〇〇しないと怒られるよ」「〇〇しないと遊べないよ」

「おやつあげるからがんばってね」「赤ちゃん組に行く?」

 

こういった脅しや排除の言葉をちらつかせて言うことを聞かせる。

大人の都合に合わせた行動を促すために褒める。

 

大人の指示通りに動くことで評価される関わりが繰り返されることで、

子どもは自分と向き合うことなく相手の中にある正解を求めていく。

 

そういった環境で、

人生の土台を築く大切な大切な乳幼児期を過ごすことによって、

どんな未来が創れるのでしょうか。

 

私は、自分の人生をゆたかに生きる人で溢れる社会を創っていくために、

「自ら育つ力」を尊重した保育の文化を探究し、対話を重ねていくことで、

多くの現場にシフトを起こし、その未来に近付いていきたいと思っています。

 

調教的スキルを使っていることに気づいて手放そう。

調教的スキルの特徴は、

  • 大人の価値観を押し付ける過干渉
  • 「〇〇しないなら遊べないよ」脅し
  • 「ちゃんとできないなら〇〇組にいってなさい」「もう知らない」排除
  • 評価的な褒め
  • 子どもを動かすための褒め 
  • ごほうびで子どもを動かす

等があります。

 

いずれも保育者側に主導権があるため、

子どもは主体性も想像力も発揮する必要がなく、指示を待ち、先生が求める正解だけを求めることに慣れていく。本人がどんなに違和感を感じていても。

そして、指示を待っていると「自分で考えなさい」と支離滅裂なことを言う保育者もいます。これは自分の中ではなく、外側、特に先生の中にある答えを考えなさいというメッセージが含まれるものです。

 

これがその子の将来にどんな影響を与えてるか考える機会が必要です。

 

 目先の成果に焦点が当たっていないかを常に確認する。

 

  • 先生の言った通りに「動いているか」
  • 大人の都合に合わせた「いい子」になっているか

 

これらが基準になっていると、表面的な子ども理解で分かった「つもり」になっていることに気づかず、調教的なスキルを使って、成長を作っている「つもり」になりがちです。

 

そして「あえて厳しくしている」保育者側にとって都合のいい言い訳を使ってしまうのも特徴です。本人にその自覚がないのが難点だったりしますね。

 

そういう方は「子どもが楽しんでいるから」「子どもがやりたがっているから」を盾にしようとすることも多いように思います。

 

一方で、他に手立てが打てず、日々後悔しながらも、調教的な方法を取らざるを得ない場合もあります。評価基準を目に見える部分、特に「できること、できないこと」で、子どもをとらえる職場環境にいると、適切なアプローチを学べず、小手先のコントロールスキルを習得してしまうケースも見受けられます。

 

  • クラスをコントロールできているか
  • 先生の話を全員が静かに聞いているか
  •  「いやだ」「きらい」などの発言はせず、いつも元気でポジティブなことを言うか
  • 約束を言われた通りに理解し、実行しているか

 

これが保育者の実力やスキルとなっている現場は要注意です。

 

目指すのはこれではないですし、乳幼児期の子どもたちに「やらせればできる」ことをやらせるのは保育でも教育でもないですよね。上司や周囲の先生から怒られないように子どもに強いるしかない状況に陥る保育者がたくさんいます。

 

保育者の実力=子どもを大人の都合で思い通りに動かす

 

ではないはずなのに…

 

このとき子どもは心から先生を信頼して行動していません。

 

子どもに偽りの前進を作る不適切なアプローチです。

 

これでは、大人にとっては都合がよいが、子どもの可能性を奪うようになります。この見えないムードの力は、人に強い影響を与えるため、機能する問いを立て、対話するチームを醸成していくことが求められるのです。

 

子どもにとって本当に大切なことは議論されず、自分の考えとやり方を正当化するような状況があれば変えていかなくてはなりません。

芽吹くのを待つ。 

子どもが言う通りに動くことは、保育者にとって、楽でしょうし、なんかできた気になるんですよね。大人にとって有能感を感じやすいのです。

 

けれど、それって、本当に子どものためになっているんでしょうか?

 (「子どものために」の主語は「保育者」です。)

 

現場全体が問題を抱えている場合、すぐに環境は変えられないかもしれません。

しかし、自分のあり方と行動は選択できるはずです。

 

もしも、納得がいかない、違和感がある保育方針や実践があったとしても、子どものためにできることが必ずあります。

 

まずは個人として大切にしてほしいあり方が、

 

「芽吹くのを待つあり方」

 

自ら育つ力を信じて、承認すること、待つことなどは、

 

劇的な変化は見られないし、すぐには手応えを感じられず、

 

「これでいいのだろうか?」

 

と、不安になったり焦ったりすることがあると思います。

 

周囲の職員がその間(余白)を埋めようとしたり、「使えない」と評価を下そうとするかもしれません。

 

しかし、子どもはそのあり方を受け取ります。これだけは確かです。

 

植物が芽を出すときのように、

無理やり引っ張り出すのではなく、

芽が出るまで、どんな土がいいのか、水はどのタイミングでどのくらい与えればいいのか、気温は?時期は?天候は?

種に直接アプローチするのはなく、環境を整えていく。

容易ではありませんが、保育者の専門性はそこにあります。

 

自ら芽吹いてくることを待つ。楽しみに待つ。

芽が出た瞬間に味わう、あの尊い感覚…

 

目の前の大人が自分の芽吹きを喜んでくれたら、

その子どもの中に、自分の人生を生き抜くための大切な大切な感覚が芽生えるのです。

 

目指す方向性はどこか?

  • 子どもの小さな変化に心を動かされよう
  • 心の機微を捉えるアンテナを持とう
  • 子どもの「今、この瞬間」を受け取ろう
  • 子どもの声に聴き入る・聴ききる(音声の声だけでなく)

 

こんなことを言うと、

「なんでもかんでも子どもの思い通りにさせて大丈夫ですか?」

という質問が返ってくることがあります。

 

どうやら、子どもの存在を尊重することと、

「なんでもいい」「なんでも許可する」を混ぜて捉えている方が

非常に多いようなんです。

 

「なんでもいい」「なんでも許可する」は尊重ではなく、放任です。

 

調教でも放任でもなく、観察と承認と対話。空間にパワフルさを生むこの3つの柱がキーとなります。

 

私自身、「子どもはこうあるべき」という枠から抜け出せないときに、環境のせいにしていたことがありました。分かってはいても、感情的になり、「こんな保育をしたいんじゃない」と後悔が続く日々もありました。

 

このままでいいのか?と思ってからは、

 

保育に留まらず、様々な人と出会い、視野を広げ、学びを求めていくと、見ている世界が変わり、

 

環境や子ども側に原因があるのではない、

全ては「自分次第」だったことに気がついたのです。

 

そんななか、承認が入り口にある保育を始めたことで、私と子どもの関係が変わりました。

 

ただ、心から実感するまで数年かかり、その間、トライしては元に戻りを繰り返していましたし、これからも常に問いを立て、ずっと探究し続けていきます。

 

共に、学び合い、育ち合っていきましょう。

 

 

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